緑内障の緑はどこから来たのか
白内障は、進行すると瞳孔が白く見えるので、受け入れやすい病名です。
しかし、現代の日本において瞳孔が真っ白に見える“過熟白内障”は減少しています。
手術の進歩により、そこまで進まないうちに早めに手術を受けることが多くなったためです。ですから、外見上、白内障と分かることはほとんどありません。
ところで、白内障と緑内障の文字を分解してみましょう。白・内・障、緑・内・障と1文字ずつにしてみます。白と緑は色を表し、内は眼球の内部の意味を表し、障は故障や障がいの意味を表しています。白内障は眼の中の水晶体という、カメラでいうレンズが白く濁る病気です。
よく目にする病名に、高血圧症、高脂血症、関節症など“症”のつく病名が多くあるなか、なぜ白内症ではなく白内障、緑内障なのか疑問ではありませんか。「内障」とは古い仏教用語で「煩悩など心の内部の障がい」を意味します。この語から、眼球の内部の障がいで視力が低下する病を「内障眼(ないしょうがん)」と呼びました。病変による瞳孔の色で、白内障、緑内障に分類されますが、虹彩が緑のグリーンアイを除いて、瞳孔が白い白内障は見たことは沢山ありますが、瞳孔が緑の緑内障は眼科医歴40年の私も見たことがありません。緑内障の緑は白内障より、もう少し複雑でワケありなのです。ところで、「内障」は2文字を合わせて一つのまとまった意味を表す熟語ですので、白内症とはならず白・内障=白内障なのです。緑内症ではなく緑内障なのです。
さて、“緑内障はなぜ緑なのか?”古代ギリシャの「医学の祖」と称される医学者であり哲人のヒポクラテスのアフォリズムaphorismにglaucosis(ギリシャ語訳)という述語があります。ちなみに、疾患の診断や治療法を簡潔に述べたものをアフォリズムと名付けました。依来、医学に限らず簡潔な表現で人生の機微を表現した箴言、金言として一つの表現方法として用いられてきました。
ところで、緑内障の英語名はglaucomaです。ギリシャ語訳のglaucosis、つまりラテン語のglaucomaが現在に生きています。
元来日本の医術は中国伝来で、緑内障の中国名は青光眼(チン・ゴン・ヤン)で緑ではなく青です。日本の古い病名「青そこひ」は青光眼を翻訳したもののようです。「そこひ」は漢字で書くと「底翳」となります。「底」は眼底(目の内側・奥底)を表し、「翳」は(かげ)と読みます。暗くなると影る(かげる)に近い意味です。底(眼底)に障害があって見えなくなる(暗くなる)ことを意味しています。このように眼の奥底の病気は底翳(そこひ)、表面の病気はうわそこひ(上翳)といわれています。青光眼はラテン語のglaucomaを青光眼と翻訳したものであろうと思われます。ラテン語でglaucomaとは淡緑色、緑灰色を意味し、緑色の色調が青より強かったようです。ドイツ語でも緑内障の俗称がgruner Star、つまり“緑そこひ”です。
ところで、青でも緑でもまあ良しとする場合、何れをとるかは好みや習慣が優先しやすいと考えられます。ゲルマン系は元来緑を愛し、服も、帽子も、窓枠もすべて緑です。
オーストリアの音楽家シューベルトの“美しき水車屋の娘”でも、娘を緑になぞられて、緑を希望の輝きとしきりに憧れた若者が、私の恋人は緑がとても大好きだ、だから私は緑にくるまりたい。何もかも緑で埋めつくしてくれ、と、失恋の想いを情熱的に歌い上げていますが、緑は愛と希望の色なのです。
さて、日本では青と緑は似たもの同志で、日常明確な使い分けをしているわけではありません。青は2音節で、緑は濁点つきの3音節で口調が異なります。緑色であっても“あおあおした田んぼ”と言い、“みどりみどりした田んぼ”とは言いません。緑色の若い豆は青豆、緑の葉も青葉若葉、緑のたたみも青だたみ、と言います。つまり日本は、ゲルマン系とは異なり青が優位にあるようです。
色彩の歴史学によると古代から有る色の代表は赤と青のようです。緑は平安朝以降に用いられ始めたもので、それまでは青が緑の代役をかねていたようです。一方ヨーロッパでは赤と緑がもっとも古い色名であるので、洋の東西の違いで青と緑の優位性が逆転しているのです。つまりヨーロッパの緑そこひ、東洋の青そこひもうなずけるというものです。少なくとも日本では、緑は緑風、緑蔭、緑化等々の新時代の色で、青の方が伝統的に根強い優位性をもっているようです。不思議なことに英語ではglaucomaのみで、緑そこひに相当する俗称はありません。
さて、「緑内障」の術語は誰が、いつ訳出したものかは不明です。明治9年(1876年)出版のオランダの教科書の訳本「眼科必携」(阪井直常訳)をみると、ここには単純緑内障とか炎症性緑内障等の記述があります。それは、ベルリン大学で近代眼科学の開祖フォン・グレーフェ(手術のグレーフェ刀は有名)がすでに1856年、緑内障に虹彩切除を試みています。それから20年して日本でも緑内障が登場したわけです。
日本最古の眼科教科書は、1815年出版の「眼科新書」で原本のウィーン大学のプレンクの著書を杉田玄白の子の杉田立郷が訳したものです。それを参考にしたという「眼科摘要」に緑内障の項目がないので、緑内障の訳語はやはり明治9年(1876年)の間(1815年~1876年)に出来上がったものと推察されます。
ここまで「緑内障の由来」についてお話しをしてきましたが、緑内障は、急性閉塞隅角緑内障がそれに当たると思われます。紀元前4~5世紀頃に古代ギリシャのピポクラテスが「地中海の海のように瞳孔が青くなり、やがて失明状態になる」と記述していることに由来しています。突然眼圧が上昇するため角膜に浮腫が起き、透明性が低下し白濁し始める状態で、このときに外からこの眼を見たときに、白濁した角膜を通して真黒な眼底をみることになるため、眼が青緑色に見えたのだと推察されます。もともと虹彩の色が青い人の瞳孔が広がって濃い青に見える可能性と、もともと虹彩の色が薄い人が同じように瞳孔が広がり青い目に近くなり、目が青く見えるこの両方が考えられます。茶目の日本人では瞳孔は青緑色には見え難く、緑内障になっても瞳孔が青や緑になるなどとは誰も思ってはいませんし、見たことがありません。
ここまで緑内障に因んだいろいろな歴史を辿り、緑内障という病名の由来をお話ししましたが、緑内障をより知る勉強の始まりとさせていただきます。
※岩田和雄先生遺稿集「緑内障百話/緑内障閑話」より一部改変させて頂きました。
現代の緑内障は本当に緑内障なのか
“緑内障の緑はどこから来たのか”の前段のコラムより、緑内障という病名の由来は、紀元前4~5世紀頃に古代ギリシャのピポクラテスが急性閉塞隅角緑内障の角膜浮腫を通して散大した瞳孔が地中海色に見えたことに由来している可能性をお話ししました。東洋は緑より青が優位性をもち、西洋では緑の方が優位性をもつため、青そこひが現在も緑内障と言われる由縁のようですとお話ししました。
さて、閉塞隅角緑内障は前房隅角の物理的閉塞を伴う緑内障で、慢性のこともあればまれに急性のこともあります。その頻度は40歳以上で0.6%でこのうち、急性閉塞隅角緑内障はごく一部です。
急性閉塞隅角緑内障の症状は、重度の眼痛と充血、視力低下、虹暈(太陽の周りに虹の輪が光るような)、頭痛、悪心、嘔吐などです。眼圧は50~60mmHg(正常値は10~20 mmHg)もしくはそれ以上に上昇することもあります。急性期では、失明を予防するために、複数の点眼薬や全身性薬物による緊急治療を行う必要があり、その後根治的治療である虹彩切開術や白内障手術(水晶体より厚みの薄い人口レンズを挿入し、隅角の圧迫を減らして眼圧を下げます。)を施行します。
現代の日本人の緑内障は、約70%が眼圧が正常範囲にある正常眼圧緑内障で、眼圧が正常値を上回る高眼圧緑内障が約30%です。その高眼圧緑内障のグループである閉塞隅角緑内障は約12%であり、その中のごく一部である急性閉塞隅角緑内障は全体の緑内障からみるとごく少数であることが報告されています。このごくわずかな緑内障の所見は、その他の全体を占める緑内障の所見や特徴を表してはいないことが理解されます。
ですから、瞳孔の色を所見として命名した緑・内障は、現代の緑内障を表現した病名ではないことが緑内障の歴史を辿ってみると理解されてきます。すなわち、眼圧がとても上昇する病態にあり失明する眼の状態を緑内障として診てきた紀元前の眼科医学から、現在は、眼圧が正常であっても進行し失明に至る眼の病態に立ち向かう眼科医学にシフトしなければならない時代が到来していると言えます。眼圧を下降させる薬や技術は先人達により、すでに数多く存在し有益です。私達眼科医のこれからは、線維柱帯、篩状板、網膜神経節細胞および中枢神経とグリア細胞を修復、再建する手法を持たなければ現代の緑内障に太刀打ちできないことを自覚しています。